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Web用原稿・学校の怪談を追跡する



written by 小池壮彦

 平成13年(2001)12月に、ソフトバンクパブリッシングのgmWIRE」というサイトにエッセイを寄稿したことがありました。タイトルは「学校の怪談を追跡する」。内容は拙著『幽霊は足あとを残す』に収録した「学校の怪談『追いかけてくる看護婦』の発信地」の要約でしたが、思えばこれがウェブサイト用に書いた最初の原稿でした。

 平成16年(2004)1月にgmWIRE」が閉鎖されたため、掲載原稿を以下に転載することにしました。詳しくは拙著に書いたことですが、調査の骨子だけ知りたい向きには、こちらの方が便利な文章といえるかもしれません。転載にあたって文章に多少の修正を加え、新たにタイトルを付しました。(2004.1.20)
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学校の怪談・看護婦霊の秘密

 学校には、さまざまな人の思いが集まる。それはときに楽しくもあり、哀しくもあり、甘酸っぱくもあれば、無惨であったりもする。憎しみや、怨念が漂うこともある。

 人が集まるところには、さまざまな怪談が生まれる。そしてその怪談は、ひょんなことから、古い土地の記憶をよみがえらせることがある。

 たとえば、兵士の幽霊が出るという伝説を持つ学校は多いけれど、なるほど調べてみると、兵舎の跡地に建った学校は少なくない。そのせいか、いつしか全国の学校で語られるようになった、怖い話がある。

 みなさんはすでに、よくご存知かもしれない。戦時に陸軍病院があった跡地に建つ中学校に、夜になると、車椅子を押す看護婦の幽霊が出るという話。

 キーコ……キーコ……と暗い廊下に響く音。古ぼけた白衣を着た看護婦が、誰も乗っていない車椅子を押しながら、廊下を歩いてくる……。

 この噂の信憑性を確かめようとして、夜の学校に乗り込んだ生徒たちがいる。彼らは、噂が事実であることを知っただけでなく、幽霊に追いかけられるはめになった。ちりぢりになって逃げ、1人はトイレに駆け込んで、個室に入ってカギをしめた。しかし、だんだん足音が近づいてくる。ギィ〜と音がして、少しずつ影が迫ってきた。

(見つかる……)と思ってうずくまり、息を殺していたが、しばらくして様子をうかがうと、あたりはしんと静まり返っている。幽霊がいる気配は、どこにもない。ほっと胸をなでおろし、ふと見上げると、ドアの上から看護婦の顔が覗いていた――。

 この話は、1990年代のはじめに有名になり、いろいろな本で紹介された。夜の校舎を、人知れず歩き回る看護婦の幽霊。そのシチュエーションは、なかなか恐ろしい。だからこの怪談は、多くの子供たちの心をとらえ、全国に広まったと見られる。

 それにしても……。

 この怪談は、単なる噂話にすぎないのか? それとも、何かしらの事実を背景にして生まれた話なのか? そもそもこの怪談は、いつどこで生まれたのか?

怪談発生の謎

 そんな疑問を私が抱いたのは、怪談は往々にして過去の記憶を現在に伝えているからである。幽霊はときに、忘れられた歴史の証人としてあらわれる。だから足のないはずの幽霊の足どりを追うことで、歴史の真実を炙り出せることもある。

 そのような趣旨で、かつて私は「看護婦霊」の噂の出所を追跡し、その経緯を『幽霊は足あとを残す』(扶桑社)という本に書いたことがある。簡単に結論をいうと、「看護婦霊」の怪談は、ある特定の学校で発生した幽霊事件にルーツがあった。それは、埼玉県の上福岡市にある中学校で、実際に起きた出来事だったのだ。

 ときは1970年代、その中学校に「白いお化けが出る」という噂がたった。お化けの正体は不明だったが、戦時にこの学校の敷地には、陸軍病院があったという。そんな噂もからみ、空襲で死んだ看護婦がいたという話になった。そこで「白いお化け」は、やがて「白衣の幽霊」ということになり、「看護婦霊」の怪談が誕生したのだ。

 しかし、そもそもこの話は、埼玉県のローカルな噂にすぎなかった。それがなぜ全国に知られたかというと、平野威馬雄著『お化けの住所録』(二見書房/昭和50年刊)という本が、噂を紹介したからである。この本によれば、幽霊が出る原因はこうである。

「戦争中、ここには陸軍病院があって、多くの兵士が死んでいる。
そのうえ、亡霊の出る便所の下には何百という遺骨が埋まったままになっていて、誰も供養しようともしない」

 だから幽霊が出るというのだが、問題はここからなのだ。

 調べてみると、この中学校の敷地が戦時に陸軍病院だったという事実はない。また、上福岡市が戦時に空襲されたという事実もない。昭和20年(1945年)に埼玉県も各地で米軍の空襲による被害を受けたが、幸いにも上福岡市は、爆撃を免れた。つまり、学校の敷地に看護婦の遺骨が埋まるという噂は、まったくの事実無根。

 だがそれならば、なぜ「看護婦霊」の怪談は生まれたか?

戦時の証言・怪談のルーツ

 謎を解く手がかりは、上福岡市の忘れられた歴史にあった。このエリアには、陸軍病院もなければ、空襲された事実もなかったが、戦時には、巨大な軍需工場がそびえていたのである。その工場の建物を借りる形で、戦後に中学校が開校した。そしていまも、同じ敷地に学校はある。

つまり「看護婦霊」の怪談は、やはり戦時の記憶を伝えている可能性がある。もしかするとそれは、戦時の機密事項、すなわち、軍需工場内で起きた何かしらの悲劇をもとにして、立ち上げられた噂だったのではないか……?

 そう考えた私は、戦時に軍需工場に勤めた経歴を持つ人を探し出し、当時、工場内で何が起きていたのかをつきとめることにした。そしてその結果、学校に出る「看護婦霊」の怪談の、ルーツが明らかになったのである。

 それを話してくれたのは、少年のころに学徒動員で上福岡市の軍需工場(通称「火工廠」)に勤務していた富田竹雄氏である。氏は戦争体験の風化を憂慮して『火工廠物語』という本を出版していた。私は富田氏にコンタクトをとり、戦時の火工廠の内部事情に看護婦の怪談を生んだ秘密が隠されているのではないか、と尋ねた。

 富田氏は、私の質問にこう答えた。

「確かに、看護婦はおりました。病院もあったんです。現に、私はそこにおりましたからね。あそこの怪談はね、もっとずっと古くからあるんですよ」

 私が富田氏にインタビューをおこなった場所は、上福岡市の市民図書館内だった。その建物は、幽霊が出るといわれた中学校に隣接している。いずれも戦時は「火工廠」の敷地だった場所であり、そこには「技能者養成所」という施設が建っていた。将来の幹部職員を養成するためのその部署に、少年だった富田氏も勤務していた。

「技能者養成所の中に、病室はあったんです」

 富田氏は戦時の状況について語ってくれた。

「看護婦さんは、4、5人ぐらいいましたかな。白衣は着てないです。もちろん最初は着てましたよ。でもね、昭和19年(1944年)あたりからは、カーキ色って言ってね、みんな国防色に変わっちゃったんです。当時は予防着と言ってました……」

 しかし、火工廠は爆撃されていないし、看護婦も死んでいない。つまり、看護婦の幽霊が出るというような話の根拠は、基本的にありえない、と富田氏は言う。ただ、「火工廠」には、「技能者養成所」の病室とは別に、正式の「医務室」があった。そしてそこにまつわる怪談なら、戦時からささやかれていたことも富田氏は証言した。

「工場では火薬を扱ってたから、爆発事故があったでしょ。怪我人は医務室に運んだんです。何人ここで亡くなってるかは、当時の秘密だったからわかりません。しかし、私は現実に見てますからね……それは悲惨なもんです。空襲も悲惨だけど、火薬が爆発して死ぬっていうのは、本当に悲惨な死に方でね……」

変化して受け継がれる

 
事故の状況を、富田氏は硬い表情で語った。
 作業員は火薬を手もとで扱うため、ひとたび爆発が起きれば、衝撃はまともに顔面を襲う。顎から耳もとにかけて、皮膚も骨も砕け散り、爆風で胸に大きな穴が開く。

 身体中に鉄片が突き刺さる。そんな瀕死の重傷者を医務室へ運んで輸血し、死んだ者からは残存血液を抜きとる。怒号の中で軍医や衛生兵が走りまわる様子は、戦場さながらの光景だったという。

 怪談では、看護婦の幽霊は車椅子を押してあらわれる。しかし、当時の工場にそんな便利なものはなかった。怪我人も死体も、看護婦が担いで運んだという。つまり「車椅子を押す看護婦」の怪談は、明らかに戦争を知らない者による創作なのだ。

 しかし、もとをたどれば「火工廠」の医務室にまつわる話が、のちの怪談の下地となっていたことは間違いない。

「中学校に出る幽霊はね、そもそも、死んだ兵隊さんの幽霊だったんです」

 富田氏は語る。「看護婦霊」の怪談のルーツである。

「昭和45年(1970年)ごろになると、兵隊さんのことも忘れられて、看護婦さんの幽霊になっちゃったんだね。話っていうのは、そうやって変わっちゃうんだ……」

 戦後の中学校には、昭和40年代ごろまで、戦時の防空壕がそのままの形で残っていたという。そこはゴミ捨て場として使われていたが、大きな深い壕だったため、中から幽霊が這い出してくるという噂が流れたらしい。おまけにそのあたりには、うっそうとした松林があった。怪談の舞台としては、うってつけだったわけである。

 子供たちは、戦時にその場所で恐ろしい事態が発生していたことを直観で悟ったのであろう。爆発事故による死者の記憶が、いつのまにか空襲による死者の話を生み、軍需工場だったという事実は、いつしか陸軍病院だったという噂に変化した。戦時の事実は、戦後に急速に忘れられた。だがその記憶は変形しながらも、「怪談」という装置によって、いまの子供たちに受け継がれたのだ。

END

怪奇探偵コレクション製作委員会